愛は思うまま

アラサー女の愛と憎しみ

誰かの私じゃなくても

今日はいい天気だったので多摩川でおにぎりを食べた。

家族やカップル、若者のグループがたくさんいて、暑過ぎたせいか、キャミソールやビキニ、上裸になっている人もいた。

川を眺めて太陽に照らされながら食べるしゃけおにぎりは最高だった。

ただの水も、すごく美味しいような気がした。

帰りに花を買って帰ろうと思ったら、花屋には長蛇の列ができていて諦めた。

母の日なのをすっかり忘れていた。

 

多摩川には夫婦やカップルがたくさんいて、そして今日は母の日で、そういえば私って妻とか、彼女とか、母親とか、誰かにとっての誰かっていう肩書きがないなあと思った。

それをすごく寂しいと思う人もいるだろうけど、今の私はそういうのも、

なんか気楽じゃん?

それもまた、一興?

という気分になった。

「誰かにとっての誰か」という肩書きは、他人に必要とされているようでいいなあ、とも思う。

でも、「誰かにとっての誰か」になることによって生まれる責任とか、期待とかそういうのって、もしかしたら少し大変かもしれない。

まあ、それ以前に一緒にいたい人がいないんですけどね。

一緒にいたい人がいる人たちって、すごいなって思う。

髪の毛1本分くらいの穴しか空いていない針に気合いで糸を通すような、そんな難しさを感じる。

ちょっと穴が糸でみちみちじゃん!みたいな。

自分も穴に糸が通る日が来るのか、わからないけど。

いつまでも、川を眺めながら1人でおにぎりを食べることに幸せを感じる自分でいたいと思った。

 

わたし